古くから山岳信仰の聖地とされていたのが、標高1072メートルの『道南の秀峰』大千軒岳です。5月中旬に山開きし、毎年多くの登山者で賑わうこの山は、道内初の金山やキリシタン殉教などの歴史に包まれた山でもあります。


道南の秀峰

登山口の奥二股からは頂上への約6キロの登山コースがあります。
谷間に広がる広い河原はキャンプサイトとして人気。また、十字架が印象的な蝦夷キリシタン殉教の地もあります。中千軒岳の高山植物が咲き乱れる自然の花畑、遠くまで見渡せる稜線を越え、千軒清水の「聖水」を汲めば頂上はもうすぐ。
頂上からは、ふもとにひろがる町並みや津軽海峡を見渡すことができ、その開放感はまた格別です。

 


◆大千軒岳の高山植物


エゾグンナイフウロ

 

フウロソウ科の多年草。
北海道の亜高山帯・高山帯に分布する特産種です。
花の見ごろは7〜8月。


タカネオミナエシ

 

オミナエシ科の多年草で、別名をチシマキンレイカといいます。
6〜7月ごろ、かわいい花が咲きます。

大千軒岳から海へ流れ出す大小の河川は、ミネラル・栄養分を豊富に含んだ水を運び、沿岸の魚たちを育てます。福島町の豊かな海の生き物達は、山の恵みによってもたらされているんですね。

◆えぞキリシタン殉教の地



大千軒岳登山コース途中にある「えぞキリシタン殉教の碑」は奥二股登山口から登って約2時間、3.5キロの地点にあります。

キリシタンが徳川幕府の迫害をさけて東北、蝦夷地へと移動しはじめたのは、1612年頃のことです。彼等にとって、蝦夷=北海道は逃亡の末の終着地でした。
幕府はキリシタン禁教令を発し、その2年後の1614年には更に大がかりな追放が始まりました。教会は焼かれ、外国人宣教師や日本人の信徒達はマニラ(フィリピン)やマカオへと強制送還されました。その後も幕府のキリシタン弾圧は続き、信徒は当時まだ比較的規制の緩かった東北へと移動をはじめました。しかし東北地方の秋田、津軽でも徐々に弾圧は厳しくなり、キリシタン達は更に北の地へと渡らざるをえなくなりました。
蝦夷へと渡ったほとんどの信徒は鉱山へと入り込み、砂金堀りの労働者となっていきました。彼等はキリストへの強い信仰によって結ばれており、その結束力は大変強く、生死も共にする事を厭わない程でした。
1637年に島原の乱が起こり、1639年には、松前藩は遂に幕命によりキリシタンを処刑することになり、千軒岳周辺で106名の信者が松前藩の数名の役人と300名の兵士によって処刑されたのでした。
昭和34年(1959)、函館カトリック教徒たちによって金山番所に十字架が建てられ、巡礼ミサが行われるようになりました。現在もこの巡礼は続けられ、毎年7月下旬の日曜日には夏の千軒岳にミサの聖歌が静かに響き渡ります。十字架は千軒平にもあり、ミサの日には信徒が登山して山頂での礼拝も行われています。
昭和36年(1961)には、追悼の意を込めて、大きな木の十字架が藩所跡に立てられました。えぞキリシタン106名の殉教は、こうしてこれからも人々の心に語り継がれていく事でしょう。